二〇〇三年 八月 二十九日(金)
旧暦 八月二日 先負
癸未年 八月初二日 誰のための裁判か池田小の事件。どう考えるべきか。材料が少ないこともあり、とても消化し切れていないのだが、印象が新鮮なうちに、書いておきたいことはある。 まず、裁判の報道を通じて、その犯行の動機が謎なまま残されてしまったこと。これがどうにも歯がゆい。謎を謎のまま残したら、再発は防止できない。 また、もうひとつは、報道。 なぜこんな書き方をするかというと、この裁判は、あくまで検察という日本の国という組織を代表する者と被告人の対決の場であって、被害者(あるいはその家族)と被告人の対決ではないはずだと思うからだ。 もちろん、ワタシは公判の全てを見ていない。だから、これらのことが起こったのは、裁判の進行上理由があってのことで、裁判長がしかるべき判断を行った上でのことと信じたいと思う。 だからこその報道なのだ。正義を追求してもらうのは構わない。しかし、利益を追求するために客の感情に訴えるだけの報じ方はやめてもらいたい。 近年、犯罪被害者への救済の問題が論じられているのも知っている。現行の刑法や裁判のあり方などが持つ問題だろう。 もちろん、犯罪被害者に対するケアが十分だとは言わない。それはそれで独立して検討していくべき問題だろう。 コメント
同じく少ない材料ではありますが、自分がこの事件の被告人及び裁判のあり方に関して思うことを書いてみます。 まず事件については、衝動的な犯行(むしゃくしゃしてやった、というやつ)だったのかなと。性格異常というよりは、キレやすい性格だったのでしょう。もちろん推測の域を出るものではありませんが、心理学や犯罪行動学での説明が必ずしも科学的でかつ優れたものだとは思いません。死刑制度のない国におけるような絶対的終身刑が日本にはないことがこの種の犯罪を犯した被告人の分析にあいまいさを残していることは否めませんが。 次に、やってしまったことについて、後悔して反省・悔悟するのが常識的な態度でしょうが、それをしたところでどうせ極刑は免れないのだという判断が、被告人を居直らせたというか、ヒールを演じきってやろうと思い至らせたのではないかなと思って見てきました。 そして、異例尽くめだったという点についてですが、裁判はもちろん法に則って行われるわけですが、実際には裁判長の訴訟指揮権によるところが大きく、もっといえば、前例や慣例に従って進められることが多いわけです。それだけに、裁判長はある意味勇気を持って、被告人を退廷させた上での極刑宣告という「異例」の判断をしたとも言えます。 また、社会に対するコメントも含めて、裁判長が自己の判断である意味「色」を出すことには賛否両論があるかと思いますが、職権の範囲内と言えれば問題はないと思います。自分は今回の件に関しては社会的に妥当といえる職権の範囲内だと判断しております。 続いて、刑事裁判のあり方に関しては仰る通り、検察官対被告人(弁護人)という図式が取られているわけですが、そこには、検察庁法に掲げられているように、本来検察官が被害者も含めて国家公益を代表しているという理念があるはずなのです。ところが、実際には検察官は検挙して有罪にすることを最優先している、という批判が強くあります。そうである以上、法律を改正して被害者及びその家族への配慮を制度的にバックアップするというのは、文字通り社会の要請として受けとめることができるのではないでしょうか。 冒頭に戻って、誰のための(刑事)裁判か、と問われれば、社会正義のための裁判だ、というのが現行法体系上の回答になるのではないかと思います。 報道については常に距離をおいて眺めるようにしているので、期待も失望もしていません。報道のあり方についてはここでは述べませんが、まっとうな報道をしている人達もいるのだと信じていたいです。概ね、少数派であるのでしょうが。。 Posted by: kuro at 2003年8月29日 15:37裁判官の裁量権が大きいことは認識しています。 しかし、そうなった経緯までが、断片的な報道でどの程度周知されたかということが問題であると思うのです。 冷静な目で見れば、この裁判が法律に基づいて行われており、いろいろな「異例」の措置にも、それなりの理由があるであろうことは想像できます。 誰のための裁判かという問いのなかには、この裁判の一方の当事者はわれわれを含む国民全体であって、けして被害者対犯人という仇討ち芝居を見物しているのではないということを配慮して報じて欲しいという意味を含みます。 報道を冷静な目で見なければならないのは分かっていることでも、ワタシを含め多くの人にとって容易なことではありません。 どうやら問題は、報道のあり方に集約されてきましたね。 自分の場合は、例の9・11の報道(TV・新聞のマスメディア)にかなり疑問を抱いて、それまでは読まなかった隔週の雑誌とかを手に取るようになりました。そこに書かれていることが真実かどうかはさておいて、判明している事実を手掛かりにguessすることは重要ですよね(余談になりますが、guessってアメリカ人の好む言葉のように思うのですが、その国のトップは情報統制がお好きなようで…)。 ああいった大きな事件なのに、伝わってくる情報が断片的だったり偏っているのは単純におかしくないか?てのが始まりでした(オウムの事件の頃は、多少の疑問を抱きつつも、まだまだマスメディアの影響をもろに受けていたような気がします。後から映画「黒い夏」を観たり、村上春樹の「アンダーグラウンド」を読んで、自分なりに考える時間を持てましたが)。 それに比べると、池田小の事件は犯罪事実に関しては明白で、そういった事件になると今度はあれこれあることないこと(ないこと、は言いすぎかな?)書き立てて、煽るだけ煽って、騒いで、すぐに忘れる。この繰り返しですよね。「事件を風化させてはならない」というお決まりの標語を掲げておいて。。 NHK以外は私企業であることを考えれば、利益追潤も尤もですし、結局個人の色を出すことよりも、企業として「消費者の欲しがる情報を与えてコントロールする」ことに主眼を置くことになってしまうのかもしれません。それに個人として疑問を抱いたところで、組織にいる限りは抗いようもないし、「嫌なら辞めろ」の世界なんでしょうね。 だから自分としては、たしかに微力かもしれないけれど、muraさんのように、「普通の人」が「普通の感覚」で提言したり、疑問を唱えたりすることの方がよっぽど重要だと思います。マスメディアを動かすことにはつながらないかもしれないけれど、マスメディアというのはそういう存在なんだってことを誰かが伝えていかなくちゃならないしのでしょうから。 blogは、自分にもそういう場が与えられたのだと思って、微力を尽くしたいと思っています。 Posted by: kuro at 2003年8月29日 22:56コメントする
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