二〇〇三年 六月 四日(

旧暦 五月五日 先負
癸未年 五月初五日

運転

信号のない横断歩道。クルマの量は少なくない。切れ目無くクルマが来たら、どうやって渡ればいいんでしょう。

横断歩道に限らず、法規上は歩行者横断禁止以外の場所であれば、歩行者優先で道路は横断できるはず。このことを歩行者はもっと意識して歩行者の権利を主張すべきだ。

こんなことを書き出したのも、都内の某自動車学校の教習車に横断歩道で待っていたにもかかわらず、目の前を走られてしまったからだ。それも1回だけじゃない。
ワタシが教習を受けたとき、同じシチュエーションでは、容赦なく教官にブレーキを踏まれた。それでイヤというほど記憶に残っているのだ。「横断歩道で待っている人がいたら、クルマは停止。」

クルマの流れに逆らって、そんなところで止められない、という運転者もいるかもしれないが、どう考えたってそのリクツはおかしい。歩行者がどこで待っていてもおかしくない公道を走っているわけなのだから。
ここに止まり方がしっかり書いてある。

このサイトは道路で出くわすいろんな場面について書いてあって、少し運転者寄り過ぎるきらいはあるものの、いろんな状況でどうすりゃいいだろうというようなことを、わかりやすく解説してくれている。

ワタシは結構強引に横断歩道を渡るが、強引に走行するクルマに比べたら、どれほど交通の妨げになっているだろうか。歩行者は二本の足で一歩一歩歩かなければ目的地にたどり着けないが、クルマなら待っている数秒間のロスはそれほど結果に大きな違いをもたらさないはずだ。
停止したってアクセルを踏めばすぐに走り出せるわけだし。

Posted by mura at 2003年6月 4日 12:07
コメント

「ほそぼそとやってます」のコメントに変わっていたのに気付いて久々にこちらを覗いてみたら、あまりの変わりように驚きました。

自分が車を運転するようになってからはチャリの危険性とかも良く分かるようになったし、運転手に対する見方も厳しくなりました。

特にヒドイのはタクシードライバーだと思いますが、大きい通りに出るところの「一時停止」なんて守っているのを見た例がありません。横断歩道も然りですね。

自分もだから敢えてぶつからない程度に強気にいきますが、それでもスピードを緩めなかったり、さらに悪質なのになるとこちらを見てすらいなかったりするので、腹が立ちます。

止まれば蹴っ飛ばしてやりたくなるし、そのまま走っていけば石でも投げつけてやりたくなりますが、グッと堪えて睨みつけています。

税金を上げるよりも、マナー違反に罰金を科した方が国の利益にもなるのではないでしょうか、実際のところ(でも、今のままではコストがかかるだけだから無理か)。

Posted by: kuro at 2003年6月12日 06:10

どうもどうも。初の書き込みです。ありがとうございます。>くろさん
たぶん、このページを初めて読んだ自分以外の人じゃないかと思いますよ。ログを見た限りでは(笑)。

いやー、こんな中途半端な終わり方の文章にコメント頂いちゃって恐縮です。

運転マナーに関しては、根本は公共性のなさが原因ですよね。
(自分のこと棚に上げて偉そうなことを言えば、)おまけに道路がクルマのためのものだっていう、根拠のない迷信にみんなして乗せられてる。
道路を造る方も、管理する方も、使う方も。

道路の作り方自体が、歩行者への配慮が足りないんですよね。社会自体の公共性のなさといっても良いかもしれない。

ワタシは以前から思ってるんですけど、横断歩道は高くなってる歩道から車道へ降りるんではなくて、歩道の高さに合わせて作ってもらいたい、ってことです。
そうやって、構造的にも速度を落とさざるを得ないようにしちゃう。
それから、交差点の横断歩道は、もっと交差点の中心に近い部分を直線的に横切れるように作る。今はふつう歩行者のほうが何メートルか交差点の折れている方向によらなければならないようになってますよね。
だから、右折車は直進車の切れ目ができると、横断歩道の手前までクルマを進めてきちゃうし、左折車も歩行者にジリジリ寄せてきちゃう。中途半端によってると、後続の直進車がプレッシャかけてきますからね。

いっそのこと、左折するとき歩行者がいたら全然ハンドル切れません、って状態にしておけば、そういうこともなくなると思うんだけどな。右折車も、下手に飛び込んだら直進車を思いきり妨害することになるということがわかれば、すこしは歩行者も見るようになるでしょ。対向車を見て右折のタイミングを合わせるのに必死で、歩行者のことなんて全然見てないのが多すぎます。

マナーなんていうソフト的なものに期待できないなら、ハード的にそういうことを考えてもらいたい。

ちなみに、土日の混雑時にアキバの裏通りに行くと面白いです。
他府県ナンバーの乗用車が、性格の悪いオタッキーな歩行者であふれかえる細い路地で立ち往生しているのを見ることが出来ます。だれも端によって道を空けてやろうなんてしません。
多分遠くからパソコン買いに来たのでしょうね。一方通行も多いし、迷い込んだのは気の毒だと思うけど、道路は歩行者のためにあるってことが如実にわかって、これで良いんだよなって妙に納得する瞬間です。

Posted by: mura at 2003年6月12日 11:09

公共性への言及は時として煙たがられるのですが、ちょっと考えてみれば分かるように、自分だけで生きているわけじゃないのだから「他者への配慮」があって当たり前の筈ですよね、本来。

利潤を追求する企業型社会の影響というか、農村型社会から都市型社会への移行の影響というか、そういった社会的要因もあるのでしょうが、もっと端的に相手を思いやる気持ちが薄れてきているのが問題なのでしょうね。

「個性の尊重」が我がまま容認でしかないとしたら、まったくもって教育が間違っていると言えるし、muraさんが『やってもた』で触れているような「しかってくれる存在」が少なくなっているのも寂しい限りです。

子供の頃から、苛めとかは別にして、叱られたり、怒られたりする過程で、是非の弁別を学んでいったのに、今は親子でも何をしても叱られない、怒られないみたいなところがあるから、あれでは子供が可哀相。

そんな親にすら怒られたことのない子供だから、大きくなって、他人に叱られたり怒られたりすると、「逆ギレ」してしまったり、妙に自信をなくしてしまったりするのでしょうね。

これは子供のせいもあるけど、大人(親や教師)が責任をもって悪いことは悪いと教えてこなかったせいだと思うんですよね。

って、最初のテーマからは随分とずれてしまいましたが、自分の憂慮するところとも重なっていたのでちょっと語らせていただきました。人間(日本人)もまだまだ捨てたもんじゃない、て数十年後に言われているといいのですけどね。

Posted by: kuro at 2003年6月12日 16:05

なんか、深い話になってきちゃったな。でもこういうのも好きです。けっこう。

日本人が他人への配慮ができるかどうかというところが、昔と比べてどう変化したかというのは、正直言ってよくわかんないですけども、そのことに対する考え方のようなものが変わってきているのは明らかなようですね。

ある意味、ワタシもその恩恵にたくさん預かってるので大きなことは言えないですが、日本でここ何十年か主流になっている自由とか個性とかの考え方って、根底にある民主主義とか資本主義のわかりやすい部分だけを頂戴しちゃってるだけのように思うんですよね。

民主主義にしろ資本主義にしろ自由主義にしろ、その概念が出来上がってく過程では、いっぱい暗い暗い闘いが隠れているわけで、その闘いの結果としてに西ヨーロッパからアメリカである程度成功したということだと思うんですよ。で、経済的な成功がそれと表裏一体になっていて、民主主義も資本主義も言ってみれば「勝てば官軍」状態なんだと思います。

そういう民主主義・資本主義みたいなものの移植スキームってのもあるわけがないはずで、戦後の日本ってのは、それの一大実験場であったとも言えますよね。
(イラク戦争とか見てても思うんですけど、戦後の日本がある程度(上辺だけでも)成功したように見えるのがアメリカに妙な自信を付けさせちゃったのではないかとも思います。パッケージソフトをインストールするようにはいかないと思うんだけどな。)

で、その実験はあんまり成功じゃなかった、っていうのが結論のような気もします。
民主主義や自由主義の行き着くところが公共性の欠如だとしたら、それこそ本末転倒もいいところです。

人間ってアリとかハチみたいに社会性があってこその生き物だと思うので、全体としてそれがうまくまとまらない思想って、格好良く見えてもやっぱり絶対的なものではないのではないかと。

Posted by: mura at 2003年6月12日 18:08
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